「僕は落語家になって6年目のある日、若き日の談志師匠のやった『ひなつば』のテープを聴いてショックを受けたんです。
〜略〜
もうどうしようもないほどの衝撃を受けたんです。決して埋まらないであろう差がわかったんです。そしてしばらくして落語を辞めました」
黙って聞いていた家元(談志)が一言。
「うまい理屈が見つかったじゃねえか」
僕はうまいことをいうつもりなんかなかった。
あわてて
「本当です」
といい返したが
「そんなことは百の承知」
といった風に家元の口から出た言葉が凄かった。
「本当だろうよ。本当だろうけど、本当の本当は違うね。まず最初にその時のお前さんは落語が辞めたかったんだよ。『あきちゃった』のか『自分に実力がないことに本能的に気づいちゃった』か、簡単な理由でね。もっといや『なんだかわからないけどただ辞めたかった』んダネ。けど人間なんてものは、今までやってきたことをただ理由なく辞めるなんざ、格好悪くて出来ないもんなんだ。そしてそこに渡りに船で俺の噺があった。『名人談志の落語にショックを受けて』辞めるんなら、自分にも余所にも理屈が通る。ってなわけだ。本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」
図星だった。もちろん『ショックを受けて辞めた』ことは本当だし、嘘をついたり言い訳をしたつもりなどなかったが、自分でも今の今まで気がつかなかった本当の本当はそんなところかもしれないと思った。
10年もの間、いの一番に自分がだまされていたものだから、完全には飲み込めていないけれど。
いろんな物や人が好きな理由にしたってそうだ。
「家庭的だから」
「目が綺麗だから」
「平井堅に似ているから」
「さっぱりしているから」
「デザインに丸みがあって、堅い材質の中にも温かみがあるから」。
そんなものは理屈だ。
本当の本当は
「好きだから」
以外の何ものでもない。
それらを嫌いになる理由も
「時々寂しそうな目をするのに気づいた」
「そのやさしさが窮屈になってきて」
なんていうのは理屈もいいところで、
「ただなんとなく嫌いになった」
ということだ。
特に我々の商売、その理屈をつけないとどうにも価値がないので
「確かに癖はありますけど、嫌みがないんです。特にこのコクがこれ以上きつくなるとしつこくなるんですけど、素材の新鮮さがその一線を守っているところが好きなんですよね」
などという。
おそらく嘘だ。
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